感想を書きたいブログ

読んだ本の感想を綴ります。気分転換のためなので更新は不定期ですがどうぞよろしくお願いします!

『友だち幻想 人と人の<つながり>を考える』

菅野 仁著『友だち幻想 人と人の<つながり>を考える』(2008)を読みました。


友だち幻想 (ちくまプリマー新書)

友だち幻想 (ちくまプリマー新書)


前の投稿から余裕で一ヶ月以上たってました・・・
つまりゆっくり本読む余裕ないくらい仕事の日々がしんどかったです(泣)

やっぱりなにが一番しんどいって人間関係の築き方です。

一応接客業なので、日々知らない人と関わるし、何より入社したばかりなので職場の人たちとの関係も一からはじめなければならない。それに仕事関係の交流会・・・

たくさんの人と関わることが得意でない私にとっては結構なストレスです。

ほんと接客業向いてない・・・と思うけど、そんなこといっていたら仕事はできない。
人間関係ってほんとめんどくさいな。ていうか、そんなにいやいや人と関わる必要ってあるのか・・・

という中で出会ったのがこちらの本です。

著者は社会学を専攻とし、大学教授をされていた方で、この本のテーマについてこのように述べています。

友だち幻想は私自身にとっても、今なお現在進行形の問題です。友だち幻想からなんとか距離を取り、リアルな現実のなかで他者とつながりながら、じっくり深い<生のあじわい>を築いてゆきたいという思いが、私にはあるのです。そのための処方箋のようなものを皆さんといっしょに考えてゆきたい、というのがこの本のテーマだったのです。


友だち幻想とは何なのか。

著者の意見をかんたんに言うと「自分のことを100パーセント丸ごと受け入れてくれる人がこの世のどこかにいて、いつかきっと出会えるはずだ」というのは幻想なんだという考え方のことです。

でもそれは決して虚無的な思想ではないし、他者に対して不信感を持つこととイコールではありません。

このへんの掘り下げつつ、まとめていきたいと思います。


<目次>

幸福と人とのつながり

私たちは人と人とのつながりにおいて、いったい何を求めているのか。それは「幸せ(幸福)」になることである、と筆者は述べます。

人間の幸福にとって本質的なものは二つのモメント(契機)に絞られます。
ひとつが「自己充実」というモメントで、「自己実現」という言葉でも言いあらわすことができます。
つまり自分が能力を最大限発揮する場を得て、やりたいことができることです。

もうひとつが「他者との交流」というモメントです。
交流の歓びはさらに、「つながりそのものの歓び」と「他者からの承認」の二つに分けられます。

交流そのものの、深いつながりそのものが持っている歓び、例えば母親が赤ちゃんを無性に愛おしくなる瞬間や、恋人と一緒にいるだけで無性に嬉しいとかつながっていることそれ自体が目もくらむほど幸せであるとか、妙に気の合う友だちと何をするわけでもなく一緒にいるのが心地よいとか、それが「つながりそのものの歓び」です。

もうひとつが「他者からの承認」です。「◯◯ちゃんていい人だよね」とか「勉強ができるんだね」とか、何かを人から認められるという喜びです。
社会生活の中で、その人の活動なり、あるいは存在そのものが認められる。なおかつそれが「自己充実」とセットになって、自分の能力を存分に発揮しそれが世間から高く評価されれば、これ以上ないというほどの歓びを得られます。

よくきく「プライベートも仕事も充実させたい」っていうのはこういうことなのかなと感じます。
すごく普遍的なことだったんですね。

幸せも苦しみも他者がもたらす

さて、自分以外の人間はどんなに気が合う、信頼できる、心を許せる人間でも、やはり自分とは違う価値観や感じ方を持っている異質性を持った他者です。

価値観が百パーセント共有できるのだとしたら、それはもはや他者ではありません。自分そのものか、自分の<分身>か何かです。思っていることや感じていることが百パーセントぴったりと一致していると思って向き合っているのは、相手ではなく自分の作った幻想にすぎないのかもしれません。


私たちにとって「他者」という存在がややこしいのは「脅威の源泉」であると同時に「生のあじわい(あるいはエロス)の源泉」にもなるという二重性にある、と筆者は述べます。
もし他者が脅威の源泉でしかないのなら引きこもって自分の趣味に没頭しれいれば楽しいかもしれないが、脅威がないかわりに、生のあじわいを得るチャンスもない。
逆に人とつながるのが楽しいだけだったらいいが、どんなに相手や周囲に配慮していても何かしら誤解しあったりうまくいかなくなることがあるのが他者との関係です。

思春期のころはどうして私の気持ちわかってもらえないんだろう・・・みたいに思うことはありましたが、今はだいぶ折り合いがつけれるようになりました。
でも、自分を表現することが怖くなることがあります。それを筆者に言わせると、「自分の本当のところをすべてきちんと伝えたい」と思ってしまうことが原因なのだそうです。むしろ「他者なのだから百パーセント自分のことなんか理解してもらえないのが当然」と思えると楽になるでしょうとのこと。

まあ、自分の本当のことをわかってほしい、みたいなところはあるな・・・特に親しい友人とか恋人との関係となると。そこでわかってもらえないということが出発点になるということでしょうか。

同調圧力

友だち関係に悩まされる要因のひとつとして著者は「同調圧力」という表現をします。
例えば友だち同士のグループでいない人の悪口をいうこと。自分もみんなと同じように同調して悪口を言わなければ仲間外れにされてしまう空気のことです。
また、流行ものを友だちと一緒に持ったりする、流行り言葉を使って、ノリの悪いやつと思われないようにみんなに合わせる、など。

いろいろな形はあるにせよ、私たちの身の周りには、様々な種類の同調圧力が張り巡らされていると筆者は述べます。

今私たちが目の当たりにしている同調圧力は、現代における新たな共同性への圧力(これをネオ共同体と呼んでみましょう)なのではないかと私は考えています。日本社会はハード部分(=物質的環境や法的な制度)では十分に近代化したのかもしれませんが、ソフト部分(=精神面や価値観)ではまだまだムラ的な同質性の関係性を引きずっているような気がします。…かつてのムラ的な伝統的共同性の根拠は、生命維持の相互性でした。貧しい生産力を基盤とした昔の庶民の生活においては、お互いに支え合って共同的なあり方をしていかなければ生活が成り立たなかったのです。…しかし現代におけるネオ共同性の根拠にあるのは「不安の相互性」です。多くの情報や多様な社会的価値観の前で、お互い自分自身の思考、価値観を立てることはできず、不安が増大している。その結果、とにかく「群れる」ことでなんとかそうした不安から逃れよう、といった無意識的な行動が新たな同調圧力を生んでいるのではないかと考えられるのです。


私自身、多くの情報、価値観に触れる中で自分自身の価値観を立てることができていません。たしかに不安を感じることはありますが、無意識的に群れることで不安から逃れようとしているのかどうか、よくわかりません。

ちなみにちょっと話はずれますが、私は「おそろいにしようのノリ」がどうも苦手で、それは同調圧力を負担に感じているってことなのかなと思ったりしました。
例えば友だちになにかを「おそろいにしない?」と提案されたとき、「私はこれがよく、あなたはそれがいい。それでいいじゃん?」と感じてしまうのです。でも、相手は「おそろい」に私とは違う価値を見出しているわけで、相手の意見に合わせるって関係を維持するために大切な面もあると思うし、バランスって大事ですよね。

「ルール関係」と「フィーリング共有関係」

著者は他者との距離感を考えるために実践的なキーワードとして「ルール関係」と「フィーリング共有関係」というワードを紹介します。

「ルール関係」と「フィーリング共有関係」を区別して使い分けられるようになると、対面的状況、組織、集団といったいろいろな単位の人間関係を考えるときに、どういう距離をとれば心地良いのかが考えやすくなります。

「ルール関係」は、他者と共存していくときに、お互いに最低守らなければならないルールを基本に成立する関係です。
「フィーリング共有関係」は同じ価値観を共有し、みんな仲良く、同じことで泣いたり笑ったりということが成り立つ関係です。

例えば仕事場というのは業績を上げるための目的集団で、組織ごとのルールがあります。
そこにフィーリングの共有性が高まったほうが、仕事の能率が上がり、組織として活性化するといえますが、基本的にはルール共有関係が成立しないところにフォーリング共有性だけを求めても成り立たないといえます。


なるほど・・・と思いました。
仕事関係の人と関わることがストレスなのは自分の中でこの辺がぐちゃぐちゃになっていたからかもしれません。
冷たい意味ではなく、職場の人とはルールの上で成り立つ関係なのだということをはっきり意識できていませんでした。
上司の言っていることが意味不明でも、職場の人間関係が面倒でも、売り上げのために仕事をしていく必要がある。でも、フィーリングの共有に固執する必要はないということですね。
相手を理解しようとか自分を理解してもらおうとか、必要な面はあるかもしれないけれど固執する必要はない。ある程度割り切って考えればいいということです。
直接的に売り上げにつながるわけではない交流会も、そこで人脈をつくっておけば、後々仕事がしやすくなって結果的に業績につながる、と考えることができますね。(というか、そう考えないと頑張れないんだけど)

大人であることの重要な要素だなと私が思うのは、「人間関係の引き受け方の成熟度」というものです。それは、親しい人たちとの関係や公的組織などで、ある役割を与えられた中で、それなりにきちんとした態度をとり、他者と折り合いをつけながら、つながりを作っていけることだと思います。


折り合いをつけながら、つながりを作っていけること・・・簡単なようで、難しい。

…自分の感覚的なノリとかリズムとか、そういうものの心地よさだけで親しさを確認していると、やはり関係は本当の意味で深まっていきません。

「ちょっと苦しい思いをしてみる」ことを通して、本当の楽しさ、生のあじわいを得るという経験はとても大切なんじゃないかと思うんです。ラクしてばかりして得られる楽しさにはどうも早く限界(飽き)が来るような気がします。


著者の菅野 仁さんが残した本を通して、人生の先輩から教えを請うて諭されたような気分です。
しんどいけど、ちょっと元気になりました。

『サラバ!上』

西加奈子著『サラバ!上』(2017)を読みました。


サラバ! (上) (小学館文庫)

サラバ! (上) (小学館文庫)


まず読み始めの最初の一行で感じた事。それは


・・・読みやすい!!


 久しぶりに「物語」って感じの本を読んだからかもしれないし、小学生の主人公の語りが中心だからなのかもしれないけど・・・。
 正確にいうと主人公は37歳になっていて過去の話をしているようなんだけど。
 あとなんか「小学館」って感じがする。深い意味はありません。


あらすじ

 圷歩(あくつ あゆむ)という少年の幼少期から、彼を取り巻く環境の変化に従ってお話が進んでいきます。

 父が海外赴任で渡ったイランの病院で産まれた歩は、メイドのバツールや、気性の荒い姉、寡黙で実直な父、裏表がなく派手好きな母と共に幸せな幼少期を過ごしていました。そんな平穏な家庭生活とは裏腹に、イラン革命での混乱が避けられなくなった家族は日本へ帰国します。

 帰国後、母の実家のある大阪で生活をはじめた歩は母方の祖母やおばたち、大家のおばちゃんらにかわいがられ、幼稚園、小学校と順調に過ごしていました。その一方で姉は「ご神木」というあだ名で呼ばれ、友達もおらず孤立しており、幼少期からある母との溝も深まる一方でした。

 そんな折父の新たな赴任先がエジプトとなり、家族はメイド付きの豪華なマンションで生活することになります。歩と姉は日本人学校に通う事になり、二人とも日本の学校とは違う雰囲気に慣れつつ、徐々に楽しむようになっていきます。エジプトでは異様に人懐っこい地元の子供たちや学校に通えない貧しい子供たちを目にする中で自分の中にある差別の感情に気がつきます。ある日ヤコブという少年に出会った歩は、彼との友情を深めていきます。



テキトーで笑える異文化


 舞台がイラン→大阪(日本)→エジプト

 と変わり主人公はなかなかインターナショナルな幼少期を過ごしています。(ちょっとうらやましい)
 中東に行った事がないので、この国の日常ってこういう感じなんだろうなあと想像するのが楽しく、ああ、きっとここの人らってこんな感じなんだろうな〜と笑っちゃうところがありました。


 例えば、エジプトでおもしろい場面があります。
 エジプトで家族はドライバーのジョールを雇いますが、ジョールは遅刻やさぼり、失敗が多く穏やかな父でさえ度々キレさせていました。

 父が叱ると、ジョールはしばらくはしおらしくなるが、数分経つとラジオを大音量でかけ、歌を歌っているというありさまだった。

 エジプトでは「IBM」という言葉があると言われている。
 Iは「インシャアッラー」、「神の思し召しのままに」という意味だ。例えばジョールが遅刻してきたとする。父がどうして遅刻するんだと怒ると、「インシャアッラー」、神がそう望んだのだ、と言う。
 Bは「ブクラ」、「明日」だ。ジョールに車を洗っておけと命令すると、「ブクラ」、明日やる、と言う。
 Mは「マレーシ」、「気にするな」だ。あの大人しい父を怒らせるという離れ業をやってのけた後に、ジョールが言うのは、「マレーシ」、「気にするな」である。父はしばらく怒っているが、ジョールが笑顔で自分の肩を叩いて「マレーシ」と言い続けているのを聞くうち、いつしか笑ってしまう。


 ジョール、とりあえず一緒に働きたくないけど、憎めない感じがおもしろいです。神が絶対的な存在すぎて焦点がずれてるというか「それただの屁理屈では?」という気持ちがわいてきますがw

 それと笑顔で「マレーシ」と自分の肩を叩いてるのは、もはやかわいくないですかw怒ってる時にこれ言われたら絶対イラつくけど、この言葉すごくいいと思います。


リアルで自然な子供たち


 全体を通して感じるのが、物語に出てくる子供の描写がリアルだということです。

 主に小学生くらいの子供たちが描写されますが、その年頃の子供ならではの素直さとか無邪気さとか残酷さがよく表現されています。

 子供は成長していくにつれて人に対して思いやったり、遠慮したり、主張したりというようなことを覚えていくと思うんですが、その途中にいる子供って人が傷つくこと自体が想像できなかったり、遠慮がないからこそまっすぐに相手と向き合えたりしますよね。


 歩の姉が「ご神木」と呼ばれるようになるエピソードが小学生ってこうだよなあと思い出すものでした。
 
 幼い頃から気性の荒かった姉は小学校の入学式では耳を塞いで入場してきたかと思えば、奇声をあげたり椅子に立ち上がったりしてじっとしていることができませんでした。小学2年、3年となるにつれ破壊的な行動は収まりますが、授業中にじっとしていることができず、友達もできませんでした。

 クラスメイトは、低学年のうちは姉をただ得体の知らない者として遠巻きに見ていましたが、中学年、高学年になると、姉の狼藉を疎ましく思うようになりました。

 皆「怖い」や「嫌い」以外の言語を持つようになり、姉をからかう罵詈雑言やあだ名を考えるようになった。頭の足りない男子生徒は、姉のことを「ぶす」と言ったし、意地悪な女子生徒は、姉のことを「ガリガリ」と言った、十分残酷だったが、とても稚拙だった。姉はだから、彼らのことをまだ、下に見ることが出来た。言葉を知らない、馬鹿な子供なのだと、そう思うことが出来た。
 だがある日、姉を徹底的に傷つける言葉が誕生してしまった。
 例の「ご神木」である。


 考えたのは男女問わず人気のある、可愛くて大人びた女の子でした。彼女はクラスメイトから尊敬されていて、「ご神木」というあだ名はなにか大人びていて、うまいこと言っていたため、姉は彼女を下に見ることができませんでした。

 「ブタ」や「幽霊」と呼ばれていた子たちと、姉はだから、一線を画してしまった。
 皆、「ブタ」や「幽霊」よりも、もちろん「ご神木」と言いたがった。それを言うと、自分が頭のいい大人になったような気がした。皆、姉ばかりを呼んだ


 人気のある女子がうまいこと言ってのけたっていうのが致命的だったのですね・・・。
 子供のあだ名のセンスってなかなかのものがありますよね。

 ちょっと難しい言葉を使いたがる感じもよく描写されているなあと感じます。

 クラスで浮いている子に対する態度がまさに子供という感じです。
 

おわりに


 『サラバ!上』では歩がエジプトでヤコブという少年に出会い、友情を育む場面で終わります。イランやエジプトで家政婦や使用人、子供たちと関わる中でその国の人々のいいかげんさや情の深さに触れたり、社会の格差や差別感情を感じたりする描写がおもしろかったです。

 エジプト滞在中に歩の両親は離婚を決めるのですが、詳しいことは書かれていません。イラン革命のとき父をひとり残して母と歩たちが先に日本へ帰国したときになにかあったのではないかと踏んでいるんですが、どうなんでしょうか!気になるので続巻で明かされることを期待して、おわりにしたいと思います。

『夫のちんぽが入らない』

『夫のちんぽが入らない』*1を読みました。


夫のちんぽが入らない(扶桑社単行本版)

夫のちんぽが入らない(扶桑社単行本版)



 タイトルを見たときは「お、おおう・・・?」という感じで軽い衝撃だったんですが、読後感はかなり重かったです。
 ミステリーやホラーなお話を読んだ後の重さとはまた違った重さというか。


後から知りましたがこの本は界隈では話題作だそうで、特に女性からの反響が良いんじゃないかなと感じました。筆者の「高校生の頃(プラス幼少期)」から「30代後半となる現在」までの思い出や悩みや苦しみのなかのどれかにはかなりの女性が共感する部分があるんじゃないかと思います。共感できない部分も結構ありますけどね。

 それから、筆者の飄々とした語り口がおもしろく、悲惨な状況なのに謎の軽さのあるところに味があって好きです。


目次

あらすじ

同じアパートに暮らす先輩と交際を始めた“私”。だが初めて交わろうとした夜、衝撃が走る。彼の性器が全く入らないのだ。その後も「入らない」一方で、二人は精神的な結びつきを強め、夫婦に。いつか入るという切なる願いの行方は―。「普通」という呪いに苦しみ続けた女性の、いじらしいほど正直な愛と性の物語。

[引用:「BOOK」データベース]


夫との出会い

 主人公の「私」は大学進学のため片田舎から東北の地方都市にやってきます。親切なおばあさんが大家であることに惹かれ住むことにした古いアパートで、後に夫となる青年と出会います。私が部屋で荷ほどきをしていると、青年はなんの躊躇もなく部屋に入ってきてカラーボックスを組み立てたり、テレビを見たり、冷蔵庫のお茶を飲んだりしだします。私よりも先にその空間に馴染んでいる青年に戸惑いながらも不思議と嫌な感じはせず、ひそかに恋心を抱いていました。

二つ隣の部屋、壁の向こうの向こうにあの人の生活がある。同じ屋根の下に住んでいる。同じ玄関とトイレを使う。これってもう一緒に住んでいるも同然ではないか。そんなことを考え始めると妙にそわそわして落ち着かない。無意味に狭い部屋の中を行ったり来たりしながら、すごいことが起きてしまった、私にはとてもすごいことだ、と呟いた。


 翌日、青年にスーパーまで案内してもらったり、近所の銭湯を教えてもらったり、夜には彼がバイト帰りに寄るという鍋焼きうどんの店に一緒に行ったりします。夜遅くに出歩くことなどなく、男の人と長い間過ごすことさえ初めてだった私は浮かれ気分で、彼のささやかな暮らしぶりを垣間見ます。


 田舎から出てきた少女が、自由に外へ出歩く事ができる生活への期待や、初めての恋心に浮足だつ描写がくすぐったく、リア充大学生でただただうらやましいです(笑)


 不意に青年から出身地を聞かれ、私は渋った挙句に白状すると彼は小学生のようにからかってきます。

「そうか、くそ田舎からのこのこ出てきてしまったか。信号って見たことある?コンビニ入ったことある?マック知ってる?エレベーターひとりで乗れる?芸能人見たことある?」

集落に信号は一機あるが、コンビニは一軒もない。マクドナルドにいたっては入ったことすらない。エレベーターは大丈夫だと思うけれど、絶対かと問われたら自信はない。だが、公園の日陰で足を伸ばして休む小錦を見たことがある。そう、小錦を見た。


小錦www



 そうして引っ越してきて3日目の夜、彼の友人の女子の家で、お昼をごちそうになり、私の部屋に戻ってきたとき、彼からこんな提案があります。

「きょうこっちの部屋で寝ていいかな。別に何もしないから。」
彼は野球の結果を見ながら、なんでもないことのように言った。
「いい、ですけど」
二つ隣の部屋で寝ている人が、今夜ここで寝るだけのことだ。私は動揺を悟られないように精いっぱい平静を装って答えた。


 そんなこんなで枕の柄ださくないかとか下着の正解はなんだとか気を揉みながらも、同じ布団で息を潜めていた私ですが、隣で彼はすうすうと眠っていました。

いや、まさか。まさかでしょ。「こっちで寝る」って本当にそういう意味なんだ。こういうことも大学生のありふれた日常なのだろうか。集落暮らしの私にはわからない…


 翌朝、二人は丘の上のスーパーでメロンパンを買い、その甘いにおいを漂わせながら信号を待っていると、彼がこうきりだします。

不意に彼が「付き合ってもらえませんか」と言った。あまりにもさらりとしていたので、大事な部分を聞き逃したのだと思った。
「付き合うとはどういうことですか?どこへ?」

正式に交際を申し込まれていることに気付いた私は感電したように「付き合いたい、です」と言った。

好いている人に、好いてもらえていた。
こんなことは生まれて初めてだった。

セックスに対する嫌悪感


 付き合うことになった夜、性的な関係になる二人ですが、ある問題が起こります。
 ちんぽが全く入らないのです。

 彼は、初めての人とするのは初めてだし、次はちゃんとできるはずだから、と言いますが「私」は初めてではなく、高校二年の夏に一度だけ経験があったのでした。

 しかし、高校生の頃の「私」は同級生たちがセックスのはなしを得意げに話すことに嫌悪感を抱いていました。

まだ経験のない私は、身近な相手とセックスすることに強い抵抗感を持つようになった。そんな恥ずかしいことを恋人や顔見知りの人間とできる気がしない。…どうしてもしなければいけないのなら、全然知らない人がいい。私はそう思った。


 「私」は高校2年の夏休みに地元のお祭りで声を掛けてきた見知らぬ高校生に誘われるまま家についていき、セックスをします。そうなっても構わない、見知らぬ高校生はちょうどいい、という投げやりな気持ちで事は進み、決していいものではなかったと言いますが、確かにちんぽは入ったのでした。


 「そんな恥ずかしいことを恋人や顔見知りの人間とできる気がしない。」という感覚はわたしもありました。セックスというものがどこか他人事で幻想の世界にあって、「裸みられるのとか、無理」と思っていました。思春期特有の性に対する嫌悪感というか。週刊誌の性的な広告とか、事件から性の暗い部分のイメージが強く残ってしまう時期がありました。あとは、幸か不幸か全然もてなかったので、そういう機会もなかったんですけどね!(泣)


 その後何度挑戦しても入らない「私」は自分が「普通ではない」と言われているような気がして、身体も心も私のほうに不備があるのではないか、不能な女と付き合う事に彼は後悔していないだろうか、と悩みます。

 このくだりで筆者のおいたちを語るところがあるのですが、このへんの育った環境とか、物事の捉え方、感じ方が根本的なところにあるのだろうな、と感じます。

母は事あるごとに私を罵った。醜い顔だ、肌は浅黒いし髪はちりちりで艶がない、目鼻もぱっとしない、どうしてお姉ちゃんだけこうも可愛くないんだろう、

赤ん坊の私が大声を上げてぐずると、それに負けない勢いで母もかんしゃくを起こす。追い詰められ、陶芸家が感情に任せて壺を割るように私を床やアスファルトに叩き付けたこともあった。

その話を母から聞かされるたび、私は失敗作としてこの世に生まれてきたのだと思った。…


 育児ノイローゼだった母の様子が語られるのですが、子供時代に自分は失敗作だと考えてしまう環境があるのはとても悲しい。そういった環境を抱え込むのか、忘れようとするのか、振り払って強く生きていこうとするのか、は人によって捉え方の違いによるものなんでしょうかね・・・。この場面ではなんてひどい母親なんだと怒りが湧きますが、母自身もかなり苦しんでいる状態なんですよね。こういう家庭の問題って外部の力で簡単に解決できるものではないし、難しいですよね。だから、子供を持つことや結婚して家庭を持つことが幸せである、と単純に言えることではないんだと思います。とはいえわたしも、普通に結婚して子供を産んで、穏やかで幸せな家庭をもつことに憧れを抱いています。


普通の夫婦とは何か


 ちんぽが入らないという問題を抱えながらも、穏やかに関係を深めていった二人は卒業後ほどなくして結婚します。

何をするにも一緒だったけれど、飽きる事はなかった。学生のころからずっとそうやってふたりで生きてきたのだから、変わりようがなかった。とても穏やかな暮らしだった。
ただ月に一、二度直面する「ちんぽが入らない」という、その一点だけが私たちの心を曇らせた。


 その後、互いに教師となった二人が直面する問題、精神的な苦悩、夫の風俗通い、私の夫以外の男性とのセックス依存、妊活などについて語られますが、今回は割愛します。むしろこちらのほうが物語の中盤で、深い場面が多いので、気になる方は本を読んでみてください。宣伝ではないんですけど(笑)

 どこかに載っていたこの本に対するコメントで「悲惨なのにかわいそうではない」というようなものがあったのですが、まさに同感です。
 ちんぽが入らずに流血し、どうして夫ではだめなのかと泣く場面では「私」はもちろん苦しいだろうけども、夫もやり場のない虚しさや悲しさを感じていたのではないでしょうか。夫は風俗に通い、妻は他人とセックスをし、互いの性を埋め合わせる日々が描かれますが、二人は一緒にい続けます。そのような状況は悲惨だけれども、かわいそうではないのは、物語の全体を通して夫婦の精神的な信頼感や優しさが伝わるからです。

「子供、できるかな。私、育てられるのかな」
血まみれのシーツの上で呟いた。
この作業を定期的に続けてゆくことも、産むことも、育てることもすべてが不安だった。
「あんたの産む子が悪い子に育つはずがない」
夫はそう断言した。思いもよらない一言だった。

あの日も今夜も、私には悪いところなんてないと夫は言い切った。


 性交で繋がったり、子を産み育てたり、世の夫婦がふつうにしていることができないことに悩み、向き合い、苦しんだ筆者ですが、自分をただ認めてくれる夫のような存在と出会えたことは、幸せな事で、結構奇跡的だと思います。

私たちは、ほかの人から見れば「ふつう」ではないのかもしれない。けれど、まわりから詮索されればされるほど、胸に湧き上がってくるものがある。私たちはふたりで生きていくのだ。そう決めてやってきたのだ、と。


 わたし自身は結婚や妊娠について、経験したことがないし、具体的に考えた事もないので、そこらへんは深く考察することはできないのですが、「普通じゃない」のが「普通」なのでは?と思います。平凡、平均という意味での普通は、わたしはいい意味で捉えるのですが、普通であることにこだわりすぎて、それが自分の望むことだと無条件に考えるようになってしまうと、それはそれで怖いなと感じます。みんなどこかしらおかしなところがあるのだと思います。

 そんな、おかしな時期を経験した筆者はこれからも夫と共に生き続けていけるのだろうなと、最後は明るい気持ちになれました。

*1:こだま(2017)『夫のちんぽが入らない』扶桑社

『内向型を強みにする』

 

マーティ・O・レイニー著 務台夏子訳『内向型を強みにする』(2013)*1を読みました。

 

内向型を強みにする (フェニックスシリーズ)

内向型を強みにする (フェニックスシリーズ)

 

  

本書では人間の気質を内向型と外向型に分け、その原因は脳の仕組みにあると科学的根拠をもって論じられています。どちらが良いとか悪いとかいう話ではありませんが、自身は内向型であるというアメリカ人の筆者によって、外向型が良しとされる場面の多い社会で生きずらさを感じる内向型人間を励ますようなかたちで書かれています。

 

・・・まさに私を励ますための本じゃないか!!ということで即注文しましたw

 

この本の好きなところは科学的見解が多く論文調で一見難しいのですがユーモアがあるところです。

 

もしどこかに自分に関係ありそうな情報があったなら、それはすばらしいことだ。逆にしっくりこない部分があっても、別に気にする事はない。これはあなたが自分自身や知り合いの内向型人間を理解するための道具なのだ。遊びは、新しい何かが起こる余地をもたらす。本書は人生と同様、遊ぶためのものだ。 

 

…別に気にする事はない(笑)ちょっといいかげんな感じもするけど、いいよね!

 

目次

 

 

 

 内向型と外向型とは何か

さて、内向型(Introvert)・外向型(Extrovert)とはどういう意味なのでしょうか。よく言う性格がインドア、アウトドアみたいなこと??内向的ってきくと暗くておとなしいとか、あまりよくないイメージがあるなぁ。本書では内向型・外向型とは何か、非常にわかりやすく説明されており、以下はその要約です。

  

内向型の人は、アイデア、感情、印象といった自身のなかの世界からエネルギーを得ています。例えるならば充電式バッテリー。いったんエネルギーを使うのをやめて、充電のために休息をとる必要があるのです。彼らの興味は自分の頭のなかへ向けられていて、物事をじっくり考え、自分を充電するための静かな場所が必要です。パーティーやテンポの早い場所では刺激が多すぎてすぐ疲れてしまいます。

 

一方外向型の人は外の世界、つまりさまざまな活動や人や場所や物など、外の世界からエネルギーを得ています。例えるならばソーラーパネル。彼らにとって、ひとりでいること、あるいはなかにいることは、厚い雲の下で生きているようなもので、充電のために太陽を必要とします。彼らのほとんどは人と話したり、人や活動や物に囲まれて働くことを好み、人や外界と接触していないときに、孤独や疲労を感じます。

 

あなたはどちらにあてはまりますか?どちらにも当てはまるし、どちらとは言い切れないという人もいるかもしれませんね。本書には簡単な自己診断テストが載っていまして、私は完全に内向型でしたw暗いってイメージがあるのはよくないですね。だって、自分自身のことなのに。自分自身が自身の性質のことを悪いイメージでとらえていることに気がつき、これは良くない、と思えました。

 励まされる素敵な一節があったのでご紹介します。

 

ゴールマン博士は、こう問いかけているーー感情に知性を、街に礼儀を、社会に思いやりをもたらすには、どうすればよいのだろうか?わたしたちは頭と心の両方を必要とする。反対の能力を持つ人から学ばねばならないのは当然のことだ。この社会は、人間性のあらゆる側面の恩恵を受けている。

  

それぞれの人間にそれぞれの側面があり、どちらも健全であり、社会に必要であるということですね。

 

 

気質の違いとからだのつながり

 筆者によると、わたしたちの気質の起源は遺伝子であり、遺伝子は心身の複雑なネットワークを決定づけます。

 

気質の違いは、主として神経科学物質に由来するようだ。わたしたちの遺伝形質のなかには、約百五十種の脳内科学物質と、神経伝達物質を処方するレシピとが含まれている。神経伝達物質は、細胞から細胞へ指示を伝え、脳のあらゆる動きを指揮している。

 

内向型と外向型の行動の違いは、脳の異なる経路を使うことに起因し、神経伝達物質は、内向型の場合外向型よりも長くて複雑な経路をたどります。また、外向型の自律神経系の拠点が交感神経寄りであるのに対し内向型は副交感神経寄りであることから思考がさかんであり脳が忙しく働いている一方、外向型のようにすばやく考える、話す、行動するということが苦手です。

 

副交感神経系が優位なため、内向型人間はーー

  • なかなかやる気が起きない、あるいは、動き出さない。怠惰に見えることがある。
  • ストレス下での反応が遅い
  • 態度が穏やか、または、ひかえめである。歩いたり話したり食べたりするのが遅い。
  • タンパク質の摂取と体温を調整する必要がある*2
  • エネルギーを回復するために休憩をとらねばならない。

 

 ちなみに私は給食食べるのめっちゃ早かったですけどね。でもたしかに、「だらだらしてんじゃない!」って母親によく言われてたし、なんでみんなあんなに溌剌としているんだろう・・・わたしがおかしいのかなあ、よくないのかなあと感じる事は多々ありました。今思えば、別にだらだらしたけりゃ十分だらだらしたらいいし、ぼんやりしたらいいと思います。ましてや、子供なんだから。子供って全然自由じゃないよなあ。一方外向型の人は

 

交感神経系が優位なため、外向型人間はーー

  • ストレス下ですばやく行動する。
  • 体を動かしたり、運動したりするのが好きである。
  • エネルギー・レベルが高く、頻繁に食べる必要がない。
  • することがないと落ち着かない。
  • 人生半ばで衰えたり、燃え尽きたりする恐れがある。

 

ないものねだりですが、うらやましさがあります。エネルギー・レベルが高いっていいな。 

 

 

脳が快感を得る方法

 気質は、脳がなにから快感を得るのかということと関係します。超危険なチャレンジ、例えば高層ビルの上を綱渡りで歩く人などは、遺伝子的にドーパミン(運動や意欲と関係する物質)需要が大きく、スリルを追い求めずにはいられないのだといいます。

 

自律神経系は、精神と体を結びつける系であり、わたしたちがどう外界に反応し、どう行動するかを左右する。…外向型の人が、ドーパミン/アドレナリン、エネルギー消費、交感神経系と関係が深いのに対し、内向型の人はアセチルコリン、エネルギー保存、副交感神経系と結びついているのである。

 

ドーパミンは運動、注意力、覚醒、学習に密接に関わる強力な神経伝達物質であり、外向型の人はドーパミン感受性が低く、大量にそれを求めます。そのため交感神経系が働くことによって放出されるアドレナリンにたよりさらなるドーパミンを作り出し、活動的になればなるほど、ドーパミンが増え、快感を感じます。

これに対し内向型の人はドーパミン感受性が高いので、ドーパミンが過剰になると、刺激が多すぎると感じます。内向型の人の主要な経路には、アセチルコリンという、脳と体の生命維持機能にかかわる、もうひとつの神経伝達物質が密接に関わっています。それは、注意力と学習力(ことに知覚学習)に働きかけ、穏やかな覚醒状態を維持する能力や長期記憶を利用する能力に影響を及ぼすため、何か考えたり感じたりしている際に、快感を感じます。

 

 つまり、脳が快感を得るしくみの違いから内向型・外向型の行動の違いが生まれるのですね。

 

 

内向型のペース

内向型であるということは、生まれ持ったの脳のしくみに由来するものであるとわかりました。しかし、社会では外向型の良い側面が賛賞されることが多いです。

 

わたしたちは、制限を設けずに、「すべてを手に入れろ」「あらゆることをやれ」という社会で育っている。しかし実際は、だれにでもーーことに内向型の人にはーー限界がある。

 

あらゆることに挑戦して、飛び込んでみて、多様な世界を知ることはすばらしいことです。実際に私も、大学時代はそういう考え方をもって色々なことに挑戦しました。それは、本当に豊かな経験だったし、幸運だったと思います。一方で、エネルギーには限りがあるということにも気がつきました。それは苦しいことでもありました。

 

これは、あなたに欠陥があるということではない。限界があること自体は問題ではなく、苦しみをもたらすのは、わたしたちの限界に対するとらえかたのほうなのだ。

 

いつも溌剌と明るかったり、何事も要領よくこなせたりする人をみては、どうして私は多くの人と関わったり、要領よく試験に合格したりできないんだろう、どうしてこんなに時間がかかるのだろう、と感じてきました。しかし、限界に対してこのようにとらえていると、自分自身をいらだたせ追い込んでしまうだけでなく、自分は変われるのだと意味のない期待をし続けることになります。こういった期待を諦めることはつらいけれど、事実を受け入れて肯定的にとらえられると、かなり気持ちが楽になります。

 

 

生まれ持った性質を大切にする

さて、本書を読み進めるうちに、私は内向型であることを受け入れられるようになりましたが、世の中うまくやっていくためには外向型のスキルって必要ですよね。例えば、仕事をするときあちこちに連絡をとり、コミュニケーションをとって円滑な仕事を図る・・・ということは避けては通れません。基本的に慣れない人と話すのが苦手なので結構苦痛なときがあります。正確にいうと、苦痛というか、必要以上に疲れてしまいます。しかし、それでは自分で自分の可能性を狭めてしまうな、とも感じます。

 

…成長とはそもそも、ちょっと新しい自分を感じることなのだ。隔離された生活は不快な感情からあなたをまもってくれるかもしれないが、同時に新たな経験や人との出会いを制限してしまう。このふたつはどちらも、あなたに力を与え、想像したことさえない喜びをもたらすものだ。 

 

そういわれてみると、成長ってちょっと辛い経験のなかにある気がします。著者がいうには、外に向かっているとき、急速にエネルギーを消費していると同時に新しい考えや経験を獲得してもいるのだそう。プラマイゼロのややプラスってかんじかな・・・

 

・・・明日も仕事がんばろう(白目)。

 

最後までありがとうございました!

*1:

Marti Olsen Laney, The Introvert Advantage: How to Thrive in An Extrovert World, New York, 2002.

*2:食事で得たエネルギーの消費が早い、体温が低いという意味

自己紹介

はじめまして!自己紹介ページに来てくださりありがとうございます。

 

このブログは読んだ本の感想をつらつらと気ままに綴るブログです。

 

思えば小さい頃からよく本を読んでいて、色々と環境が変わる中で読書が自分にとっての癒しであるということに気がつきました。でも、「今まで本って何冊よんだかな〜あ、あの映画の原作前に読んだけどどんな話だったけな〜。」とかいうことが多々あり

 

…そうだ!ブログに記録として残しておこう!

 

ということで今に至ります。

 

本を読んだり黙々と文章を書いたりすることは割と自分にとってのリラックス方法みたいなので、気分転換として更新していきます。

 

まったく更新しないときはおそらく毎日の忙しさで疲れ果てていますw

なるべくそうならないように余裕をもって生きていきたいと思います!ということでよろしくお願いいたします〜。

『ヴィヨンの妻』

太宰治著『ヴィヨンの妻』(1950年)を読みました。

 

ヴィヨンの妻 (新潮文庫)

ヴィヨンの妻 (新潮文庫)

 

 

 作家の夫大谷とその妻との間の出来事を、妻が語るかたちで進んでいくお話です。

 

一番印象に残った一文を・・・

 

私は、お正月の末に、お店のお客にけがされました。

 

妻の告白です。この文だけ読むと、ショッキングな感じがします。ただ、私はこのシーンは妻の心の機微をうまく表している感じかしておもしろいな〜と思うのです!

  

 妻は26歳で、30歳の夫との間に4歳になる息子がいます。以前は父親とおでんの屋台を営みつつましく暮らしていました。夫とのなれそめについてこのように語る場面があります。

 

母は早くになくなり、父と私と二人きりで長屋住居をしていて、屋台のほうも父と二人でやっていましたのですが、いまのあの人がときどき屋台に立ち寄って、私はそのうちに父をあざむいて、あの人と、よそで逢うようになりまして、坊やがおなかに出来ましたので、いろいろごたごたの末、どうやらあの人の女房というような形になったものの、もちろん籍も何もはいっておりませんし、… 

 

「いろいろごたごた」ってかなりごたごたした感が否めない(笑)

妻の語る様子では、かなり哀愁漂う家庭生活が浮かんできます。4歳になる息子は栄養不足のせいか、2歳の子供より小さいくらいで、歩く足許も言葉もおぼつきません。そのような状態でも夫は息子の心配などせず、どこかへ出掛けていってしまいます。医者に連れて行くにもお金がない。家の中も荒れきっている。

 

腐りかけているような畳、破れほうだいの障子、落ちかけている壁、紙がはがれて中の骨が露出している襖、片隅に机と本箱、それもからっぽの本箱…

 

妻、めっちゃかわいそう。 

 

…あの人は家を出ると三晩も四晩も、いいえ、ひとつきも帰らぬ事もございまして、どこで何をしている事やら、帰る時は、いつも泥酔していて、真蒼な顔で、はあっはあっと、くるしそうな呼吸をして、私の顔を黙って見て、ぽろぽろと涙を流す事もあり、またいきなり…(略)「ああ、いかん。こわいんだ。こわいんだよ、僕は。こわい!たすけてくれ!」などと言いまして、がたがた震えている事もあり、…

 

 夫、病んでますね。どうしようもない性格なのに、なぜかモテる人っていますよね。おでん屋で出会った頃は、どこか影のある感じが魅力的にみえてしまったのでしょうか・・・。

 

さて、夫・大谷はついに事件を起こします。

深夜にあわただしく帰ってきた夫が、荒い呼吸をしながら机の引き出しや本箱を掻きまわしていると、料理屋を営んでいているという二人の夫婦が、大谷が泥棒を働いたといって訪ねてきました。

 

「ゆすりだ」と夫は威かけ高に言うのですが、その声は震えていました。「恐喝だ。帰れ!文句があるなら、あした聞く」

 

「たいへんな事を言いやがるなあ、先生、すっかりもう一人前の悪党だ。それではもう警察へお願いするより手がねえぜ」

その言葉の響きには、私の全身鳥肌立ったほどの凄い憎悪がこもっていました。

 

どうやら大谷は毎回代金を支払わずに料理屋の酒を飲み続け、挙げ句の果てに店の売上金を盗んでいたようです。妻はなんとかするので警察沙汰にはしないでくれと料理屋夫婦に頼みます。しかし、考えたところで金を工面する方法が思いつかない妻はその後、あてもなくその料理屋を訪ねます。そして金の工面ができそうだと嘘をつき、それまでの人質として料理屋で手伝いをする、と夫婦に説明し、料理屋で働くこととなります。

すると妻に変化があらわれるのです。

 

くるくると羽衣一まいを纏って舞っているように身軽く立ち働き、自惚れかもしれませぬけれども、その日のお店は異様に活気づいていたようで、私の名前をたずねたり、また握手などを求めたりするお客さんが二人、三人どころではございませんでした。

 

そのうち、大谷が客としてやってきて「大谷と他人の仲ではないマダム」が借金を支払ってくれることになりました。結果的に嘘が本当になった妻は重荷が解け、たちまち気持ちが軽やかになっていきます。

 

...私の生活は、今までとはまるで違って、浮々した楽しいものになりました。さっそく電髪屋に行って、髪の手入れも致しましたし、お化粧も取りそろえまして、着物を縫い直したり、また、おかみさんから新しい白足袋を二足もいただき、これまでの胸の中の重苦しい思いが、きれいに拭い去られた感じでした。

 

そんな中、妻は料理屋に来る客は、様々な事情を抱える人たちばかりであることに気がつきます。立派な身なりの奥さんが水の入った酒瓶を売りつけに来たり。

 

あんな上品そうな奥さんさえ、こんな事をたくらまなければならなくなっている世の中で、我が身にうしろ暗いところが一つもなくて生きて行く事は、不可能だと思いました。

 

 

 ある雨の夜、料理屋での仕事を終えてかえる時、傘をかりていきますとおかみさんに声をかけると、傘をもっているので送りましょうと工員風のお客に声をかけられます。

 

二人は電車に乗り、相合傘でまっ暗い道をならんで歩きます。男は大谷のファンだと話し、妻の家に着いた後、わかれます。

 

しかし、深夜にその男が再びやってきて、ふらふらしながら、帰りに酒を飲んでいたら電車がなくなってしまったから泊めてくれと頼みに来るのです。夫の帰宅だと思って玄関を開けた妻でしたが、主人もおりませんし、と座布団を二枚玄関の式台に敷いて男を寝かせることにしました。そして...

 

そうして、その翌る日のあけがた、私は、あっけなくその手にいれられました。 

 

その描写はたったこの一文。逆に気になる・・・!客の男との出来事についてはやけに説明が少なく、唐突に終わるところに、妻の心の変化がかいま見えます。けがされた、手にいれられた、と言ってますが、妻がひそかに望んだ結果であるような感じがするのです。

 

家の外に出て、みなが正しさばかりでは生きていけないことに気がついた妻は、「妻」としては正しくないかもしれないこの出来事をただただシンプルに告白しています。夫への恨みや寂しさといった感情を表す表現もありません。そうしてこのお話の最後は妻のこんなセリフで締めくくられます。

 

人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ。」 

 

正の感情でも負の感情でもなく 生きていさえすればいいのよ、と夫に投げかける妻の言葉には清々しささえ感じるのです。

『おとなになるってどんなこと?』

吉本ばななさんの『おとなになるってどんなこと?』(2015年)を読みました。

 

 

この本はほんとにたまたま手に入れた本で、本屋さんや図書館でみかけたとしても手に取らなかっただろうと思います。

 

それはいわゆる(?)リサイクルイベントで、思い出があるけれど必要のないものを持ち寄ってそれをお互い交換するというもの。が、しかしそれほど欲しいものもない・・・ということで吉本ばななさんの本だしそれなりにおもしろいんじゃね?と軽い気持ちで持ち帰ってきました。

 

この本はどういう本なのか、冒頭でばななさんの思いがこのように綴られます。

 

 気持ちがぶれてしまったときや自分でも自分が信じられないほどに落ち込んでしまったとき、この本を手にとりしばらく読み返せばいつのまにか自分の内面が調律できる、もとの軸に戻れる。

 そういうお守りみたいな本が作りたかったです。

 

タイトルからして思春期の少年少女向きの本かな?と思っていましたがもう大人の自分にとってもじわじわと沁みる内容でした。自分を好きになろう、とかがんばらなくてもいい、とか単純に言ってくるような安っぽい自己啓発本とは一線を画す本です。

 

中でも印象に残った一節を。

 

 いちばんだいじなことは、自分の中にいる泣き叫んでいる子どもを認めてあげることです。ないことにしないことです。そうすると心の中に空間ができて、自分を大丈夫にしてくれるのです。             

 大人になるということは、つまりは、子どもの自分をちゃんと抱えながら、大人を生きるということです。 

 

ばななさんが小学生の頃、初めて他者を思いやった瞬間のエピソードと共に語られます。

私がおとなになった瞬間はいつだっただろうか・・・はやく大人になりたいと思いながら、いつのまにか体は大人になりました。一人で早起きすることも、食事をすることも、お酒を飲むことも、たばこを吸うことも、車に乗ることもできるようになりました。恋もしました。

でも、ふとした瞬間に子供の頃の自分は現れます。好きじゃないことをがんばることがどうもつらい。

 

子供の頃に悲しかったり傷ついたりした思い出って誰にでもあると思うんですが、そういうのをないことにしないってことですよね。ただ、受け入れる。ああ、悲しかったな〜もうあんな思いしたくないな〜。

 

いっつもぐずってる子供の頃の自分をちゃんとなだめながら、今を生きるってことなのかな。

 

ああ、こんな本読んでたな〜ってくらいおとなになりたいものです。